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「感動ポルノ」に感動することは罪なのか?

Twitterはてブで知ったが、24時間TVの裏で放送されたNHK Eテレの情報バラエティー番組「バリバラ」*1が話題を集めた。
上の記事にあるように、障害者を感動的なコンテンツと化す、いわゆる「感動ポルノ」を批判するものだったらしい。

近々パラリンピックが行われることもあってか、障害を持って生きる人に関しての話題を見聞きする機会がこのところ多いように思う。

そして、「感動ポルノ」というワードは、ここ最近で自分にとってかなりインパクトの強かった語だ。

ので、その語を中心に、ここ数日ぐらいで感じたこと、考えたことをメモしておきたい。

念のため、前置きしておいた方がいいかもしれない。
私は健常者であり、近しい家族に障害者を持っているわけでもなく、障害を持った人との関わりは薄い方、と言えるかもしれない。
それでも、私の職場では障害を持った人も働いている。

「感動ポルノ」とは何か?

きっかけは忘れたが、私がこの語を知ったのは今年の初め頃だったろうか。
それがどのような行為を指すのかは、下の記事を読んでもらうのが最もわかりやすいだろうと思う。

私は次のように理解している:

「障害を持つ人々のことを、ただ『障害を持つ』という理由だけで特別視し、感動の対象と見なす行為」

だと。

そのような意図でコンテンツを制作すること、制作されたコンテンツ、そしてそのコンテンツを鑑賞すること。
それらは、みな「感動ポルノ」なのだろう、と理解している。

感動することは悪ではないと思う。一方で、捏造は罪だろう

昔、TVで両腕のないドライバーが両足を器用に動かして巧みにハンドルを操作し、車を運転する映像を見たことがある。

感想は「すごい」の一言だ。 「かわいそう」とは思わなかったと思う。 が、一種の感動だったことは疑いない。

『なんてことないわ。毎日やっていることだもの』

実際にそんなセリフがあったかは覚えていないが、そういうノリだったように記憶している。

上に挙げた logmi.jp の記事の中で、ステラ・ヤング氏は次のように述べている:

私はこの身体とともに長い年月を過ごしてきており、自分の身体をとても気に入っています。やらなければならないことは自分でできますし、みなさんと同じように、自分の身体の持つ可能性を最大限活かすことを学んできました。
先ほどお見せした写真の子供たちも同じです。彼らは何も特別なことはしていません。彼らの身体でできる限りのことをしているだけなのです。

だから、「できない人が頑張ってできるようになった」ようなドラマを、障害を持った人にスポットを当てて作ることには、欺瞞が付きまとうのだ。

パラリンピックで感動することは悪いことなのか

パラリンピックは障害を持った人たちによるスポーツの祭典である*2
いま Wikipedia を読んで知った程度のにわか知識しかないが、1948年のロンドン・オリンピックの際に、イギリスで戦傷兵たちのリハビリの一環で行われたのが発祥のようだ。

それが純粋に公平なスポーツ競技である以上、そこに与えられる栄誉に偽りはない。

最近、リオ・パラリンピックのプロモーションムービーが「かっこいい」と評判になった。

http://tr.twipple.jp/t/4b/768737222220656640.html

まだ観てないという方は、ぜひ観てほしいと思う。 一見の価値はあるだろうと思うので。

私は動画を観て、率直に「すごい」と思った。 体のパーツが無いことが不自然というより、逆に個性になっているようにさえ感じた。
こんな風に感動することが悪いこととは、思いたくない。

じゃあ、「どんな風に感動することが許されるのか?」と問うと、それはすごく難しい気がするが。

ステラ・ヤング氏は、上の記事の中で「あなたはほかの人を見て感動することはないの?」という問いを自身に向け、次のように答えている:

実際のところ、します。ほかの障害者の姿からいつも感銘を受けています。でもそれは、自分が彼らよりも恵まれているから感動するわけではありません。落とした物を拾うのに、バーベキューのトングを使うのは素晴らしいアイデアだということを教えてもらいました。車椅子のバッテリーから、携帯電話を充電できるというカッコいい裏技も学びました。彼らは天才です。

健常者も障害者も同列に競い合える、という一つの理想形

2012年のロンドン・オリンピックで準決勝に進出した「ブレードランナー」ことオスカー・ピストリウス選手のことは、記憶に新しいという人も多いだろう。

不幸な事故*3で、今後の選手活動は絶望視されているが、世界トップクラスの選手たちとも互角の勝負を見せた類稀な選手だったろう。

その走力を支えていた義足に関連して、最近興味深い話題があった。

これを受けて、次のように夢想した:

健常者も障害者も関係なく競い合える、というのは一つの理想形なのかもしれない。

そうなったら、もしかしたら未来にはパラリンピックが必要なくなったりするだろうか。

障害者をどこまで平等に扱っていいのか?

じゃあ、障害者と健常者を常に同じように扱っていいのか、というと、実際そうは行かない、ということもあるだろう。

段差一つで行動範囲が大幅に制限される人もいる。

バリアフリーを実現するには、まだまだ課題は多いと思う。
だから、配慮が必要なことはあると思う。

結局、どうしたらいいのか?

あくまで自分なりの結論だけれど、今のところこんな風に考えている。

大事なことは一人ひとりに向き合って、その人を尊重することだろう。 (いるとしたら)身近な障害者を、または、これから出会う障害者を。

目で見た事実に対して感じたことは、嘘ではないと思う。
それをごまかしたり、否定する必要はないんじゃないかと思う。
結局のところ、「どう思われたいか」なんて本人にしかわからないし、「どう感じたか」を取り出して相手に見せることも容易ではない。

友達や同僚など、他の人と接するのと同じように接すれば良いのではないか。
ただし、彼彼女の身体的その他のハンディキャップには、配慮しつつ。

最後に

もう何度か紹介した logmi.jp のステラ・ヤング氏の言葉をもう少し引用して、打鍵を終えることにする。

私は、障害が例外としてではなく、ふつうのこととして扱われる世界で生きていきたいと望んでいます。
(略)障害そのものは、何も特別なことではありません。でもあなたの障害に対する意識について考えることは、あなたを特別な存在にします。ありがとうございました。